あなたの論理は飛躍している:論理の飛躍

 ある人は、「AならばB」と考えているのに、時として、他の人から論理の飛躍と言われてしまう。
 なぜなのだろうか?
 
 論理の飛躍というのは、人間の知性を考える上では、ある意味重要なことなのかもしれない。
 なぜなら、論理の飛躍は、人間の知性のある意味本質だからだ。
 人間の脳は、かなり強引に因果関係・ルール(AならばB)を見つけ出そうとする。
 なぜなら、少ない事例でも対処するためだ。
 自然界では、数多くの事例を体験することは困難だ(数多く体験したら死んでいる)。そのため、外れても良いから、非常に数少ない事例の中からルールを作り出せるように、正確さを軽視して、かなり強引にルール見つけ出すように脳は進化したようだ。
 この少ない事例でルールを(正しいかどうかを別として)見つけ出す脳の能力を活用するか、しないかは創造力を高める上で重要なポイントだろう。
 「論理の飛躍があるからダメだ」ではなく、その論理の飛躍の溝を丹念に埋めることこそが、重要な場合が多い。
 本人だけでは埋められないことが多いので、他の人に協力してもらい埋めることが重要なのだが...これができる人が意外と少ない。
 これができるか、できないかで、創造的組織になるのか、創造力をつぶす組織化の違いになるだろう。

PS
 双方に経験・知識の違いがあると、当然ながら事例から抽出・発見されるルールに大きな違いがある。この場合は、ルールが合っている間違っているの水掛け論ではなく、なぜ、違いが発生するのか、事例を含めて話し合う必要性がある。

PS2
 事例件数が同じであっても、似たような事例しか知らない人と、さまざまな事例をしている人では、ルールが異なる。ネットなどで、似たような事例ばかりに接していると、情報量の割には、質が向上しない。多様性がやはり重要。

PS3
 現実の世界は数学の世界とは違う。
「AならばB」とうルール(公理)そのものが、怪しいのだ。そのため、結局は小さい論理の飛躍か大きい論理の飛躍に過ぎない。
 逆に数学の世界では、公理という絶対的なルールを設定してこの問題を回避している(数学というのはあくまでも公理の中での論理。現実に適応可能かは別問題)。