昔、昔。SFCやMDとPCゲームの間には何となく棲み分けがあった。
■得意ジャンル
・SFCやMD
アクションゲーム、シューティング、RPG
・PCゲーム(PC98)
シミュレーション、アドベンチャー、RPG
棲み分けが発生した原因は、ユーザーインターフェイスとメディアの違いでしょうか。
ゲームが要求するPC98のCPUは286クラスでしたので・・・CPUは五分五分くらいでしょうか。
▼インターフェイス
PCゲームの入力インターフェイスは、キーボードにマウス。
SFCの十字キーなどと比べると、まったくもって、アクションゲーム向きではありませんでした。
▼メディア
PC98は1.4MBのフロッピーディスク(FD)でしょうか?
そして、FDの値段は1枚100円くらい。
対して、SFCなどはROMが中心。
名作FF6が3MBくらいでした。
つまり、FD約2枚分。
絵などでデータサイズが大きい、アドベンチャーゲームはPC向きでした。
サイレントメビウスとかは、7枚組だったかな。
「A列車」などのシミュレーションゲームは、作った世界を保存する必要があるため、FD(1.4MBデータが保存できる)が使えるPC向きのゲームでした。
当時は、シムシティやポピュラスなどシミュレーションゲーム全盛でしたね。
なんやかんやで、PCの方が向いていたゲームジャンルがあったわけです。
■迫りくるCD−ROMの脅威
さて、CD−ROM。フロッピーを上回る560MBの容量。
そして、メディア価格は、100円〜200円くらいとお安い。
そのため、当然ゲーム業界も、CD−ROMに目を点けまして、PCエンジンCDロムロムやメガCDなどが登場しました。
大データ容量を用いたアニメーションや動画、音声、音楽が売りでしたね。
まさに理想のメディアでしたが、90年代前半は、ドライブの値段が高かった。
1万円以上、2万円くらいしたのかな。
■PSの登場
94年PS登場。
32ビットCPU、CD−ROM標準装備、3D処理エンジン付きで39800円。
当時、PC98がモニター抜きで20万円くらいしたかな?
(結構曖昧)
PCゲーム(PC98)のアドバンテージなんて吹き飛びました。
むしろ、PC98の方は、CDROMはないわ、3D処理エンジンはないわ、CPUは遅いは、メインメモリは小さいわ、ハード価格は高いはで、良いことなし。
PSの保存装置は、FD程じゃないけど、それなりのサイズのメモリーカードがあり、シミュレーションゲームの保存もそれなりに可能になりました。
PCゲームの得意ジャンルは、完全になくなりました。
当然、PCゲーム(特にシミュレーション)を中心活躍した「光栄」「アートディンク」もPS中心に移行。
唯一残った優位性のあるジャンルは・・・・コンシューマーが手を出せないエロゲー。
日本のPCゲームには、エロゲーだけが残ったのです。
■海外事情
80年代後半、日本で、「イース」「ソーサリアン」など8BITマシンPC88でのゲームが全盛の頃、海外は同じくAPPLEⅡがゲームの中心でした。
グラフィックは、88>「APPLEⅡ」、「IBM PC」でした。
しかし、ホビー機には別の勢力が存在しました。16BITマシンの1985年登場のAMIGAです。
高解像モードの発色数はPC98並の16色ですが、低解像度なら4096色。さらにホビー向けらしくカスタムチップによりアニメーションもスムーズでした。
90年代、前半になりますとビジネスマシンであるはずの「IBM PC」に変化が現れます。
VGAが普及したこともありますが、海外ではWINDOWS3.0(1991年発売)が日本では考えられない程売れていました。
そして、WINDOWS3.0が要求するスペックはDOSのPC98よりも高いため、多くのユーザーがPC98よりも遥かに高性能なマシンを持っていました。
海外は、VGA・SVGAというPC98よりも上のグラフィックに、PC98よりも大きなメモリ、i386CPU、HDD標準装備でした。i486も特に珍しくありませんでした。
要するにCD−ROMとスプライト抜きのFM−TOWNSがゲームの標準スペックでした。
PC98よりも恵まれたスペックは、当然ゲームに影響します。
そして、生まれたゲームが『Wolfenstein 3D』(1992年)『DOOM』(1993年)。そして、『Ultima Underworld』(1992年)と『MYST』(1993年)です。
CD−ROMもそれなりに普及と日本よりも恵まれたゲーム環境でしたので、PSの猛攻にも耐えどうにか絶滅は免れました。
■海外事情 PCゲームの復興と驚異のハードの進歩
そして、1995年にゲーム向けの3DアクセラレータチップVoodooを発表。
1996年にDirextX3Dが登場。
とPCゲームは、3D性能を追う幅に向上させました。
そして、1999年にPSを明確に上回ったハードウェアT&Lを搭載したGeForce 256が登場しました。
価格が高いから当たり前ですが、PCゲームの表現能力は、PSを完全に上回ったのです。
そして、この後、NVIDIAとATIによる血で血を洗う性能向上レースが始まります。
PS2に一時期は抜かれましたが、その後、直ぐに再び抜き返しました。
毎年のようにゲームに必要な要求スペックを向上させ、「ハーフライフ2」など驚異的なグラフィックのゲームを次々と登場させました。
さらにとどめを刺したが、プログラマブルシェーダの登場です。
毎年のように、ハード技術も、ソフト技術も向上して行きました。
(ゲーマーは毎年ハードウェアの更新に多額のお金をかけるのですが・・・大人だからね。なんとか耐えられました)
その結果、海外では、最高のグラフィックと技術はPCゲームから生まれるものでした。
(言いすぎかな)
■日本事情
PSの成功により、ハードウェアの性能が5年に一回しか、更新されないPSなどコンシューマ機が中心になりました。
そのため、限られた資源で美しいグラフィックという職人芸は磨かれましたが、毎年のように海外PCゲーム市場で起きた、ハード進歩によるソフトの進歩、ソフトの進歩によるハードの進歩という流れから取り残されました。
日本のプログラマがいくら有能でも、経験を積む場や技術を学び・発揮する場がなければ、遅れてしまうのは当然です。
グラフィック技術の最先端は、PCゲーム市場がある海外勢に移って行きました。
■PS3、XBOX360の登場
PS3が登場した時、海外のゲーム会社は、既にPS3のスペックをPCゲーム市場で体験しており、スペックを使いこなす技術をある程度持っていましたが、日本のゲームメーカーは一部しか持っていませんでした。
海外メーカーと日本メーカーの間に、とんでもない差が生まれていたのです。
その結果、日本のソフトメーカーは海外市場を次々に失っていきました。