自然言語、言葉を論理的に考えすぎると訳が判らなくなる。

 今日は、こちらの記事を読みまして、論理的思考について依然考えたことを思い出しました。
 良くドラマなどで、父親が不良の娘に、「家に居るのだから、親の言うことを聞け」などと言うことがあります。
 じゃあ、「家に居なければ」どうなるのか?
 「家に居なければ、親の言うことを聞かなくて良い」というのが、家出娘の理論ではないでしょうか?
 論理では、「家に居ない場合」は不明です。
 上記のルールは「家に居なければ」、どうするかについて何も言っていません。
 しかし、どうにも、不明というのは、直感的に違和感を感じました。
 原因は、暗黙の了解というか、ストーリーに会わないためです。
もし仮に、
「家に居るのだから、親の言うことを聞け」かつ「家に居なければ、親の言うことを聞け」でしたら、結局、家に居ても、居なくても、「親の言うことを聞け」ですので、「家に〜」の条件の部分は、まったく意味がありません。普通、分岐するから条件とつけるのであって、分岐しないのであれば、論理的には成り立っても、感情的には不思議な感があります。
 また、「家に居るのだから、親の言うことを聞け」「家に居なければ、お爺さんの言うことを聞け」という可能性も、論理的には成り立ちます。
 ストーリー的には変ですが。
 基本的に、言うことを聞かなくていいときの条件がありませんので、聞く側の自由な解釈になってしまう面があります。
 そのため、「家に居なければ、親の言うことを聞かなくて良い」とは限らないですが、そう言う風に解釈してはいけない、条件もなしということになります。まぁ、ストーリー的には自然だと思います。
【結局】
 自然言語、言葉を論理的に考えすぎると、訳が判らなくなる。
 論理的に考えるのはほどほどに、やるならプログラミング言語で、
 という話でした。
 
PS
 正直言いまして、原文の論理は、少しややこしい。

前提P : 「営業上の債権のうち破産債権等で1年以内に弁済を受けることができないものがある」
結論Q : 「これを投資その他の資産の部に表示したか。」
ではなく、

前提P : 「営業上の債権のうち破産債権等で1年以内に弁済を受けることができないものがある」
結論Q : 「これを投資その他の資産の部に表示する。」
なら判り易い。 
 前提が、偽の場合、結論が何であろうといいので、常に、式の評価は真になるのである(要するに、論理に偽の場合、どうしたら良いかが書いていないので何をしても、論理に反した内容にはなっていない)。

 ズレは、なぜ起きた。
 たぶん、このチェックシートは、ルール通りに行っているかのチェックシートなのでしょう。
 ある人は、ルール通りにやっているか、どうかで○×を付ける。
 また、ある人は、行動で、○×を付けるをつけることを望んでいる。
 目的は、双方とも共通しているのですが。細部で意識に差が出来たみたいです。