主観的価値と市場的価値について 〜生きる価値・存在価値について

 ビジネスにおいて、価値の本質とは何かを知ることは大変重要です。
 なぜなら、価値が低いものは、価格が下がります。そして、価値と価格の関係を知ることにより、価格を吊り上げることが可能なためです。

【価値】
 基本的に、価値というのは、神様が絶対的に作ったものではなく、人間が作り出したものです。
 そして、大きく分けて、主観的価値と市場的価値などがあります(学術用語ではありません)。
 客観的価値と呼ばれるものは、多くの場合、市場的価値のことです。

 市場的価値は、文字通り市場における取引価格的・価値的なものです。
 客観性的というよりも、主観価値の集まりでしょうか。
 主観価値に応じて、価値を決めています。
 忘れてはいけないのは、金銭を媒体にしたあくまでも取引価値ということです。
 購入者主観的価値>取引価値ではないと、取引が発生しません。そして、主観価値は、人により違います。価値は人によりまちまちだということです。
 しかし、取りあえず取引価格は、それなりに一意に決まります。
 また、取引価格・価値>販売者主観的価値で、ないと取引は発生しません。
 つまり、購入者主観的価値>取引価格・価値>販売者主観的価値なわけです。

【例】
 判りやすいのが、中古玩具市場でしょうか。あるブリキのおもちゃaに対して、Aさんは、2万円でも欲しいと良い。Bさんは、1万円までなら出すと言い。Cさんは、0円でもいらないという。
 荒っぽい話ですが、1個しかないものを、この3人に対して、オークションにかけたら、取引価格は1万円以上でしょうか。エスカレーションする可能性は抜きです。
 市場価格は、1万円とつきます。
 問題になるのは、市場に出せれていない商品、取り引きされていない商品です。
 市場価格が存在しません。まぁ、事例がたくさんあれば、前例主義になりますが...


【日本経済の低迷】
 日本経済の低迷原因の一つに、価値と価格に対する考えの甘さがあります。
 誰にとっての価値なのか。誰に対しての価値なのか。という主語に対する考察が非常に弱い。結局これがターゲットの甘さになる。
 価値の多様性を認識せず、客観性という亡霊・価格に振り回されている点です。
 高い価値を見てみてくれる人を見つけて売りこめば、高い価格で売れるのですが、価値の多様性をについて認識していません。
 ロングテールに関しても、塵も積もれば山となる的な発想であり、高値で買う人を見つけるという発想はあまりありません。ネット通販で成功しているところは、ロングテールにより、購入者を単に見つけるだけではなく、高値で買う人を見つける点にあります。そのために、売り切れが多いのですが...
 マーケティング的に言うと、客を絞る訳です。商品を尖らせたり、品数を制限し、客層を限定し、価格を上げ、客を絞ります。
 好みじゃない人を、価格を下げ無理やり取りこむ気はさらさらありません。
 あくまでも、売りこむのは、自分の価値を理解して、高値で買う人だけです。

【生きる価値・存在価値】
 話は変わりますが。
 生きる価値・存在価値とは、この場合、主観的な価値なのでしょうか?
 それとも、市場取引価値なのでしょうか?
 市場取引価値だとしたら、いったい何を売りだして、誰が買うのだろうか?
 玩具の例を出しましたが、価値は人によりまちまちだということです。
 当たり前の話ですが、自分の価値は、自分が値を付けるのと、親が付けるのと、友人が付けるのと、知らない人がつけるのとでは、価値が違います。
 一般的に、市場取引されるのは、その人の労働者としての価値です。逆にそれ以外の価値は、市場取引されていないので不明となります。
 悲しいかな、その人の労働者としての価値は取引されて、市場価格があるのに対して、逆にそれ以外の価値は、市場取引されていないので不明であるため、人間としての価値=労働者としての価値として、市場価格が決められ、取り扱われます。
 困ったことに、この市場価格が、しょせん労働者としての価値なのに、疑いもなく人間としての価値と考えるのが、悲しいですね。
 私的には、自分の「生きる価値」「存在価値」を他人に定義されるのではなく、自分で定義したいものですね。客観性がないですが...そもそも客観性が必要であるかもどうかも、不明です。
 人間の価値は、労働者としての価値以外にもあるのですから。
 それに自分で、さっさと決めないと、他人からの価値=自分の価値と思いこんでしまう可能で高くなります。そして、他人の価値に振り回され、他人からの評価にビクビクして落ち着かない人生になってしまいます。
 他人からの評価にビクビクして落ち着かない人生になった時点で、幸せは遠くなるでしょうね確実に。
 もっとも、日本人は、会社人間として、人生そのものを売りに出していると言えなくもない。たぶん、幸福感が低い原因の一つではないだろうか?
 しかし、自分の価値を自分でどう決めるか。
 楽観的に、自分は価値が高いんだとなるか。
 それとも、自分で自分の価値を作っていくか。
 自分の価値を高めるために、自分好みの自分になれるように努力をするか。それはそれで、現実と理想のギャップで苦しむけど...他人に決められるより、マシだと思う。
 なれるなれないは別として、自分で決めて、精一杯生きると、結構割り切れる。後悔が少ない人生にはなると思う。
 死ぬ瞬間、自分の過去を振り返って、他人の価値観に振り回された人生なんて、ぞっとする。
【でも、他者の価値は気になるな】
 人間は、社会的生き物だからね。市場原理の基本は、GIVE&TAKE。GIVEが先でTAKEが後。市場価値においては、他者に何を与えられるかが、重要になる。
 極端な話、他人をいかに幸せにできるか、他人を喜ばせることが出来るかかだ。
 しかし、他人を幸せにして、自分を不幸にしたら本末転倒。
 結局、人生は、他人の幸せと自分の幸せの両立という問題になる。
 最終的な人生の勝者とは、他人の幸せと自分の幸せの両立させた人間なんだろう。

【存在価値】
 実のところ、この存在価値というのも、恐ろしい考えです。
よく「人間存在している以上、何かしらの存在価値がある」みたいな慰め方をする人がいますが、非常に危険です。
 この考えは、「存在価値がないものは、存在してはならない」という思想に容易に転びます
 太陽も地球も自然も人間のために存在しているわけではありません。人間が誕生する遥か前から、存在しているわけです。
 しょせん、価値なんて、人間が定義するもの。
 人間にとって、価値があろうとなかろうと、存在しているものが大半なんです。
 しかし、人間は脳の構造からして意味を見つけたがる生き物
 そして、都市に住むことが火に油を注ぐ。
 都市に住む人間は、人間に役に立つものとして作られた道具に囲まれて生きています。ほとんど、360度何らかの意味がある人工物。そして、存在価値がないものはゴミとして捨てられます
 その結果、人間は無意識のうちに、「存在している以上、何かしらの存在価値がある」「利用価値がある」と思いこんでしまいます。そして、価値がなくても存在するという当たり前のことを忘れます
 まぁ、その結果、「人間存在している以上、何かしらの存在価値がある」みたいな人間の道具化、人間の物扱い的な発想に疑問を持たなくなります。
 現代人の悲劇ですね。

PS
 今日は疲れたので、早くて寝てしまった。そして、異常なくらい早く起きてしまった。